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読書ペース

 ビブリア四巻読み終わりました。
 悔しいくらいに面白かったです。
 でも一言言わせてもらえば、ちょっとミステリとしてベタすぎない?

 結構読書ペースが上がってきて良い感じであります。
 しかし、まあ、先日多読をディスったのはいいのですが、正直なところ、やっぱりどんどん読みたいというのはあるわけで・・・。
 なので、無駄を無くすことでペースを上げるという方式をとりたいわけです。

 つまり、まあ僕の場合、結構読んでいるとぼーっとしてきちゃってすぐに眠くなる場合が多いのですが、まずそれを無くす。これはコーヒーを飲むことと、あとはぼーっとしてきた段階で軽い運動を挟むことでどうにかなります。
 と言いつつ、オリバーツイストを読んでいる途中で見事に寝落ちしたのが今日なのですが。

 あとは、隙間の時間を使って読むということですね。
 待ち時間ももちろんのこと、トイレに行くときなんかも絶対持っていって読んでいます。
 コーヒーのお湯を沸かすときも、ご飯を作っているときも、出来る限りの空いた時間を読書に費やしています。

 けど、元々が読むのが遅いので、ペースが良ければ一冊二日、悪ければ一ヶ月。掛かっちゃうものなのですね。
 だからといって、一ヶ月も掛けて読んだものを、余計に時間を使いすぎた、無駄な時間を使った、などとは思いません。その本に必要な時間を使ったら、一ヶ月になったんだと考えるようにしてます。
 オリバーツイストはどれくらい掛かるでしょうね。
 読んでいてほっとするような文章なので(身を預けられるような感じ?)、時間が掛かりそうです。
 やっぱり読んでいて不満がちな文章だと、ついつい先へ先へと急いでしまいますから。


 僕が読書量を増やしたのは、区切りのいい事に、去年の四月からのことです。
 だからそろそろ、今年度が終わります。あと、一ヶ月ちょっと。うぅ・・・。早いですね。
 それまでに一体何冊読み終えることが出来るのか。
 厚さも全然違う本ばかりですが、今のところ冊数で言えば、50冊くらい? 全然少ないですね。ラノベを合わせれば70冊くらいなのですが、ラノベはまた別枠と言うことで・・・。


 しかし、またペースも下がりそうです。
 忙しくなりそうですから。
 嫌だな。
 でも、仕方ない。


 というわけで、今日はこの辺で。
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ビブリア四巻

 今日発売でしたね。
 早速買ってきて読んでいます。
 いや、別に楽しみにしていたわけじゃないですよ?
 僕はね、読書は好きじゃない。基本的にね。だから仮にシリーズで読んでいるものがあって、その新作が出たからといって、心躍らせて書店に走るような、そんなタイプの人間じゃないのです。
 少なくともそう言った純粋性は、数年前に朽ち果てたというわけです。


 いま半分くらいですね。
 楽しいです。
 読みやすいですし、ドラマがある。
 でも、肌に合わないみたい。
 読書というのが作者との対話だとするなら、この本を読んでいるときは、僕は作者と大きな隔たりを感じてしまいます。言うなれば、シャッターを下ろしたその内側から、さらに道一つを挟んでぼそぼそ会話するような。確かにその内容は汲めても、ちっともわかり合えない感じ。
 それかまたは、顔は合わせているのに、愛想と社交辞令で話しているような、上辺の付き合い。

 荒涼とした僻地で世間の目から隠れるように執筆しているのですかね。それでいて世間の方に食指は伸ばして未練がましいような。


 いや。
 言い過ぎですね。
 どうにも。

 僕としてはこんな風に感じられる作品というのは、正直珍しくないことで(つまり僕という人間の底が知れるわけですが。)、だからこそ僕はちゃんと腹を据えてこの本に向き合わなくちゃいけないのかなと思います。


 以前、ある知り合いの知り合いが口にしていた言葉があります。
 「自分は太宰が嫌いだ。だから、全部太宰の作品を読んだ。そうして改めて、自信を持って言える。自分は太宰が嫌いだ。」
 これを聞いた知り合いは、「なるほど。それは道理だ」と感心したそうです。
 しかし、僕ははっきり、そいつはおかしいんじゃないかと、思ったのです。

 だってその人は、太宰が嫌いで、もっと太宰を嫌いになるために、太宰の作品を読んだように思われてならないからです。
 読書というのは、予め自分が用意していた欲求に答えるというだけのものじゃないと思います。
 だからこそ、読んでいて嫌になるような本もたくさんある。
 それは実際、現実においてもそうなのだと思います。
 人と関わるとき、必ずしも好感の持てる人々と相対できるわけではない。
 その時に、じゃあ、その人と付き合っていく上でどうするのか。
 その人を自信を持って嫌いになるために、その人を知ろうとする?
 そんなの嫌です。
 出来ることなら、その人とわかり合いたい。
 その為に知ろうとするのではないですか。
 読書も同じ事だと思います。
 作者が記した、一つの存在との対話です。
 確かにいくらわかり合おうとしたところで、わかり合えないどころか、結局のところもっとこじれて収拾のつかなくなるくらいひどい結果をもたらすことにもなります。正直、上手くいくことの方が少ないです。だって、そもそも、好感の持てる人とだって、理解が進むごとに厭になっていく場合の方が多いのに、それが逆の場合、上手くいかない可能性が高いのは、当然のことです。
 僕自身、乏しい人生経験の中で、そう言ったことはいくつか経験してきました。
 手痛いしっぺ返しを喰らったこともあります。僕の方でわかりたいと思っていても、それが一方的で、押しつけがましい、相手にとって鼻持ちならないことなのだと、痛感させられたこともしばしばです。
 たぶん、僕は節操のない、弁えないやつだったのでしょう。いや、今もそうですね。結局のところ、僕は僕の価値観でしか動けない欠陥児のようなのです。
 だからきっと、僕のスタンスをこうして示したところで、それを受けた人に冷笑をもって迎えられるだろうこともわかっています。(勿論、必ずしもそうでないことを希望してもいますが。)
 だけど、それをやめちゃったら、僕はただの人間、ホモサピエンスの一個体に過ぎない、ただの肉の塊になってしまう。
 僕は僕として(小鳥が互いの利害の意思疎通に囀るばかりでなく)、自分の存在を誇示し、また誇示された存在を受け止めて接していかなくてはならない。
 そうでなくては、本当に、僕は仮面以外の顔を持てなくなってしまう。そう言った非人間性を、達観した面持ちで迎え入れるような、そんな大人になるつもりもない。
 だから、僕は、気に入らない人間でも、肌に合わない本でも、どこかに僕自身とわかり合える部分がないかと探す。手を伸ばして、それがはねのけられてもいい。そうしたら僕は、はねのけられたことについて考えるまでだ。それ以上踏み込みはしない。わかり合おうと思っても、執着するつもりはないのだから。

 つまり何が言いたいかというと、僕としては僕なりの手法でこの本と向き合おうというわけです。
 どうにも、巨乳眼鏡っ娘に目を奪われがちな主人公には辟易しがちですが、しかしそれは自分を見るようでもあるし(はっきり、巨乳眼鏡っ娘は至高の存在だろう。そうだろう? そうに違いない。)、あながち無視できない問題でもあるのです。


 ただ実際のところ、僕というのは口から出任せ、言いっぱなしの有言不実行の輩ですので、ある程度まで歩み寄ろうとしても、遂に気力が尽きて、「あーだめ。やっぱだめ。むりむり。僕ってやつはなんて器の小さいやつなんだ。はい、でも無理です」なんて言って投げ出すこともしばしばです。
 ああ。そう。
 欠陥児であるというのは、事実そうなのです。心底認めたくないことなのですが。よく、付き合いの深い他人にそう言って諫められるのです。


 まあこうやって、誰にも関心を払われないようなブログを日々綴っているのも、僕という奴を、取り繕った体裁の良いオトナにしないためでもあるのです。いや、実際のところ、欠陥児である僕に、“オトナ”になれるだけの才もないのですが・・・。

 ああ。でも、矛盾だらけだ。一貫性がない。僕という奴は。本当に口から出任せ。気分屋なのですね。


 さて。
 残りを読みましょうか。
 では、この辺で。

食事と多読

 昨日、ようやく悪の教典を読み終わりました。
 面白かったです。
 またしても僕は打ちのめされました。
 読み終わった後はずっと、溜め息ばかり吐いていました。
 それは嘆息でもあり、感嘆でもあります。自分が惨めで矮小な蟻のようになって、巨大な人間がのしのし歩くのを見上げるような心持ちになったり、純粋にこんな本に出会えて読めて良かったと感謝し、ハスミン、マジぱねえっすって気持ちになったり。やっぱり貴志祐介はエロゲーマーだなと思ったり。

 文庫本の解説に映画版の監督が筆を執っていて、それにも好感を抱けました。だから、原作→実写っていうのが僕にとって割とタブーであっても、悪の教典は見ようかなと思います。評判もいいですしね。

 貴志祐介の作品を読んでいて思ったのですが、僕の知っている文学とは対照的に、かなり淡々と描かれている気がします。
 文学が感傷的であるとしたら、貴志祐介作品は、文学ではない、と言ってもいいかもしれません。でも実際は別に文学が感傷的であらねばならないなんてことはないので、勿の論、これも文学ですよね。


 それで本題なのですが、読み終わってからしばらく考え事に耽っていた訳ですが、ふと、食事について、巡り巡って行き着きました。
 人間は実に色々なものを食べますよね。
 タンパク質を摂るために、牛や豚、鶏、魚の肉を食べたり、あるいは豆を食べたり、また虫を食べたり。
 ビタミンを摂るために、果実を食べたり、野菜を食べたり、肉を食べたり、また虫を食べたり。
 でも、食べるからって、全部必要なわけじゃない。
 消化せずにいつも排泄されているものも多いはず。その存在を一個丸ごと口にしても、消化器官は必要な物質だけを抽出して残りを排泄物として外に出す。
 例えばビタミンを摂取しようとして、一日に蜜柑や檸檬を何十個も口にしたところで、そのほとんどは不要なものとして排泄されてしまいます(あるいは何らかの中毒症状が出るかもしれません)。
 一日に必要な量というのは概ね決まっていて、それ以上に摂取すれば身体は悲鳴を上げ、あるいは極めて不合理に贅沢をその腹にため込むことになります。
 これって、読書と一緒だな、と思いました。

 もちろん、個人差はあります。一応断っておきますけどね。
 一日に必要な量が、一般的な人のそれを基本的に逸脱している人だって、います。身長が同じでも、筋肉の量が違ければ消費するカロリーには差が生じます。

 僕はそもそも、多読を是とする風潮に、ひどく厭悪しているわけです。
 結構これに賛同してくれる人も、最近は多いんじゃないかと思います。

 大人が若者に口にする、若い内はたくさん本を読め、というあれ。
 あるいは啓蒙本が煽る、見聞の拡大を引き合いに出した、多読。
 (中学高校の国語教師の、“徒に”主張する、漫画ではなく、ラノベではなく、文学を読めというあれも、これと似た問題だと思います)
 僕にはそれが全然的外れのように思われてなりませんでした。

 たくさん本を読むことは確かに悪いことはないでしょう。
 それが、長期にわたって積み重ねるものなら。
 それに中には知能の擢んでた人もいて、そういった人がスポンジが水を吸うように、自然と多読に至って知識を集積していくのは、なんら問題ないとは思います。

 飽くまで、知能的に未熟な段階においての話です(例えば僕みたいな)。

 では、何故短期間における多読が問題なのか。
 これは先ほどいったように、読書もまた食事なのです。
 これはよく言われますよね。心の食事だ、なんて。僕は正直この論説も嫌いなのですが(だって、口紅をべったり唇に塗りつけた、見るも卑しげな女性が好んで口にしそうな話じゃないですか。偏見? ええ、経験則に基づいた偏見です。)、でもこれは良い例えだと思います。
 いくら短期間にたくさん臓腑に文字を流し込んでも、それが吸収される度合いはそれぞれある程度決まっているのです。
 それを徒にたくさん口にしていれば、傲慢が腹に蓄えられて、鼻につくような横柄な態度を供出すること請け合いです。
 それは一種の、人格における病とも言えましょう。自然に吸収される以上の栄養素を摂取し続けたために、恒常性を破綻させてしまうのです。

 ちょっと言い過ぎかな?


 それに、読書というのが、その真価を発揮するのは、読んでからある程度の時間を経てからだと、僕は思います。
 というのは僕があまり感性的に豊かでないか、あんまり頭が良くないからなのかもしれないのですが、僕は初めて読む本の中の文字が、悉く乾燥した砂のように感じられるのです。
 けれど、時間が経ってそれを思い返してみると、あら不思議。
 まるで砂漠の一角に突然オアシスが出来るように、記憶の中の文字列からは、瑞々しい何かがじわじわと滲み出てくるのです。
 読んだ当初は何でもない、つまらない話だなと思っていても、時間が経ってみると、なんとも滋味溢れるもののように思われて、ふと考えを巡らせてみると、なるほど、実はそのつまらないと思っていた文章から滲み出た水に、自分はずっと喉を潤わせてきていたのかと、そう思い至るのです。

 それはまあ、読書だけではないですね。
 ゲームでも漫画でも、ラノベでも音楽でも、人間関係でもそうかもしれません。
 だからこそ、そのどれもが一期一会なれば、多読などに象徴されるような、出会いの全てを消費物と断ずるような風潮は、到底度し難いというわけです。

 とにかくたくさん読むよりかは、一冊だけでも、いつも懐に忍ばせておきたくなるような本を持ち得ることの方が、ずっと豊かな人間性の表れであると、僕は思いますよ。



 というわけで、今日は結構長くなりましたね。
 では、この辺で。

お風呂

 湯船に浸かりますか?
 僕は浸かりません。
 ここ数年、シャワーだけで済ましています。
 正直、湯船に浸かるのが面倒で仕方ないです。

 でも先日、友人達との飲み会の際知ったのですが、結構大人になっても湯船に浸かって何十分も過ごすみたいですね。
 手持ちぶさたにならないのかな?
 何だか湯船に入るのが当然の話だったので、遂に僕は「何でシャワーだけで済ますんじゃだめなの?」とは聞けませんでした。

 しかし年に一度、冬至の時は柚風呂になるので、その時ばかりは僕も湯船に入ります。
 そうすることで、季節の風情を感じられるからで、その特異性の中で考え事をすると結構良い感じに頭が巡るからです。
 実際それ以外の動機付けって言ったら、なんですか? やっぱ気持ちいいんですか? 健康に良いから?
 正直、シャワーでも充分気持ちいいと思うんですよ。
 というか湯船に浸かってもそれほど気持ちいいと思えない。
 温泉とかならまだゆっくりしましょうっていう気分の中にあるから、ゆっくり気持ちいい感覚に浸れるのですが、毎日の家では、そんなところでゆっくりしているなら部屋でゆっくりしたい的な。

 とまあ、今日は湯船ディスをしているわけですが。
 でも湯船の中でストレッチすると、マジで身体柔らかくなりますよね。
 以前にとある事情の下、毎日結構大きな湯船に浸かることができる時期があったのですが、その時に身体のストレッチをしていたら、基本的に鋼のように伸縮性の乏しい僕の身体がぐんぐん柔らかくなっていって驚いたことがあります。
 でも普通の大きさの湯船じゃあ、ストレッチなんてロクに出来ませんし、だから今はしてないです。ついでに言うと、今じゃあ鋼どころか木材ですね。


 悪の教典読んでますよ。
 今ちょうど、ハスミンが始動したところです。
 「みんな、ちょっと、そのまま動かないでくれ」「うん、ちょっと待って」これ、いいですよね。
 さすがハスミン。
 想像を超えて強かな動物の群れを前に、如何にして立ち回り、幕を引くか。楽しみですね。

 でもこの展開じゃ、ハスミン、バッドエンドフラグ立ちまくりですよね。僕としてはハスミンのトゥルーエンドを見たいところなのですが。つまり、全てを周到にやりのけて、悠々自適に危険から解放されるエンド。
 まあ、無理ですよね。ちょっと手落ちが多すぎますものね。


 さて、では今日はこの辺で。

栽培

 はい。
 もちろんゲームの中(ニーアゲシュタルト)での話です。
 まさかこんなに楽しいとは思いませんでした。
 いまじゃあことあるごとに村に戻って作物が水を欲していないかどうか確かめてます。
 作物が実るとなんだか嬉しいですね。
 どうせ売ってお金にしちゃうんですけど。
 ちなみに本体の時計を弄ってというのは今のところやっていません。
 スイカ十個のクエ達成するときには使っちゃうかもですけど、出来るだけそういう、ゲームの外での作為をしないようにしたいです。

 いやぁ。にしても、鷲の卵を集めるのにこんなに苦労するとは・・・。
 といっても途中から街を出入りするのでなく、コンティニューを使った集め方を知ったのでかなり楽になりました。
 それまではずっと街を出入りして、その度に蝙蝠を倒しまくってましたよ。


 にしても、こんなにゲームばっかりしている生活習慣は改めなくてはならないですね。
 どうにか漢検の勉強もぽちぽちやってるんですが、やっぱり定着が肝ですね。学んだその瞬間は普通に覚えていても、やっぱり短期記憶から長期記憶に変容するにあたって、エビングハウスの忘却曲線を想起させられますね。ちゃんとリハーサルを繰り返してニューロンのスパインをぷくっと膨らませてあげないといけませんね。


 というか、勉強量よりも何より、読書量が著しく減少してしまっていることが憂慮すべき点であります。
 悪の教典も読んでいるのですが、どうにも、ゲームで眼が疲れてしまって、一日に200pほどしか読めていないのが現状です。
 これはよくない。
 だから夢の中でも読書をする羽目になってしまったんだ。
 夢の中では、綾辻行人のAnotherを読んでいましたね。なぜか夢の中では上中下巻で、中巻が挟まっていましたけど。
 はやくニーアも卒業しなければです。


 でもやっぱ、いいですね。
 ニーア。
 世界観がたまらないです。
 ドラッグオンドラグーンのスタッフが作っているということで、あの絶望感溢れる話なのかと思っていたのですが、実際は苛烈なる現実を穏やかなるオブラートに覆いつつみこんだ優しいお話でしたね。
 まあ、マモノの正体を知ると、なんとも言えない気持ちになりますが・・・。


 実際マモノの立場を考え、ニーア達のことを考えると、これは一見単簡な問題のように見受けられますが、実際のところ世の本質を穿った鋭いテーマなのかとも思われます。
 主題を語るためのキャラクターとしての人形が、いつの間にかそれ自体が主体となって物語を紡いでいくような。


 さて、さっさとクリアしましょうかね。
 ではこの辺で。

ゲーム

 やばいです。ニーアが面白すぎて、ブログを書くモチベーションが異常に下がっています。
 ちなみに昨日、ノーマルモードで一週目クリアしました。
 どうやら調べてみたら、Aエンド、Bエンド、Cエンド、Dエンドとあるようですが、驚いたことにどれも途中から周回プレイになるのですね。
 どうせまた最初からやるんだしーって思っていて前半のクエストとか普通に取りこぼしていたわけで、後半になるに従って敵が弱すぎてぬるぬるになっていたのもあり、最初からハードモードでプレイすることにしました。

 で、まさにハード。敵がハード。硬い。全然攻撃が通らないし、しかもノックバック耐性までついちゃって、普通の攻撃じゃのけぞってくれない。つまり、うまくやらないと攻撃が繋がらない。
 しかも序盤はカイネも6号もいないので、かなりきついですね。
 どうしても、兜割りと魔法の連続になっちゃいます。

 どうにかタイミング良くガードして敵を弾くやつをマスターしたいのですが、やっぱりあれはドラッグオンドラグーン同様結構シビアですね。
 しかも小さい敵だと、ちゃんと後ろに回って攻撃するという嫌らしいルーチンを持っているので、また難易度が高い。


 そういえばことあるごとに本編に選択肢が出てきますけど、あれは別にエンディングに影響しないんですね。


 なんにしても、こんなにはまるとは思いませんでした。
 単純なアクションならベヨネッタの方が楽しめると思うのですが、どうしてでしょう。
 やっぱり敵を倒した後の報酬がRPGの方が多いからかな。
 ベヨネッタだとせいぜいお金的なのが集まるくらいですからね。

 シナリオ? って聞かれると、うーん。
 確かにシナリオは良かったんだけど、どうしてもちょっと煮え切らなかったんですよね。
 すごく呆気なかったですね。
 近所の神殿に行ってそこで敵を倒して終わりとは・・・。
 そうですね、世界が狭かった。
 もう少し、旧時代の街並みの中での戦闘とか欲しかったですね。

 クエストとか多くするよりも、シナリオを厚くして欲しかったですよ。実際。
 まあ制作面から言えば、シナリオを厚くするよりも、クエストを増やしてゲームを楽しめる量を増やすっていう方が合理的なのだとは思いますけど。


 ニーア終わったらまたゲームやりたいな。
 なにかないかな。
 探そう。


 というわけで、連日こんな感じでひどいブログですが、今日もこの辺で。

おさけ

 昨日は友人たちと久しぶりにお酒を飲んできました。
 本当は行く前にブログを更新していくべきだったのですが、すっかり忘れてしまって、というか行く前は先週のプリキュアとか見ててもうブログなんて頭になかったです・・・。反省反省。

 友達と飲むのは楽しいですね。
 でも、まさか朝までとは思いませんでした。
 夕方から日付変わる前くらいまで飲んでお開きって感じかと。
 僕は普段の生活でほとんど人としゃべったりしない根暗なので、久しぶりに友達と話すのはなんだか上手くいきませんでした。
 というか元々滑舌が悪いのですが、ますますそれが助長されていて、聞いている友達たちに申し訳ない気持ちでしたよ。

 以前は本当に、屈託なくみんなと楽しめるたちだったのですが、なんでしょう。最近、どうしても人との関わりの内に心を動かすことが出来ません。
 話すこと、笑うこと、それ自体は楽しいですし笑顔も出るのですが、どうにも、積極的に口に出して気持ちを発信して行こうとか、話に混じって笑い合おうとか、そういう普通の気持ちが湧いてきません。
 これはまずいかもです。

 どうにも生活の基礎を考え事に据えている身としては、気持ちの全てが自己完結しがちです。
 そこに他者を介入させて意見を混ぜ合う、絡ませ合うというような行為をしなくなってしまいました。


 というよりも、どうしても人が思っていること、感じていることに共感ができなくなってしまったというか・・・。
 つまり、僕が言いたいのは、僕はもしかすると小説を書くということを主題においた人生において、少々誤った道を歩んでしまっているのではないかという危惧が、あるわけです・・・。
 どんどん“普通”の考え、気持ち、価値観から逸脱していくような感覚があります。
 僕としてはそれが正しい道のりだと思って突き進んでいるわけですが、やっぱり疑問に思って少し歩みを鈍くさせてしまいたくなるときもあります。


 まあ突き進んでみることにしますけど。
 もしそれで友達たちとも話が合わなくなってしまって、互いの間に超えがたい隔たりが出来てしまったとしても、それでもこっちの道を進むと決めてしまったからには、それ以外の全ては二の次三の次と、そうせねばならないわけで、過去のものになってしまったものに、いつまでも拘泥するのは無理があるのでしょう。

 改めて、僕はもう後戻りする気も出来ることもないのだから、書かねばならない。書かねばならない。と強く強く思ったわけです。
 朝までの長い時間の中で。


 でも、友達の中にも、同志と呼べるような友達もいるわけで、なんだかんだその友人と話しているときは、瞑っていた眼が開けるように心沸きたつ時間が訪れるのです。結局、単に僕が我が儘勝手なだけなのかな。


 というわけで、今日はこの辺で。

にーあにあ

 昨日に引き続き絶賛プレイ中でございます。
 面白い。いやぁ。面白いですね。素晴らしい。

 でも、想像していたのとはちょっと違ったかな。
 割と明るい話ですね。
 背景や足下は暗くても、目の前は明るい感じ。
 結構希望的なお話ですね。

 それとも、ヨナが死んじゃったりしてから、一気にくらい話になったりとか?

 いや、まさかね。


 驚いた点がひとつ。
 作中にサウンドノベルパートが出てきたこと。
 びっくりしました。
 しかもその文章のクオリティがまた高くって、素晴らしい。
 なんだかおとぎ話みたいな世界観ですね。
 昔話ならぬ、未来話、みたいな。

 とおーい、とおい、みらいのおはなし。
 あるところにひとりのおとことそのむすめがおりました。
 ふたりはひびつつましくくらしており・・・

 みたいな。
 ゼルダみたいな(パロもありましたね)、キングダムハーツみたいな、モンハンみたいな空気が漂ってます。


 難易度はノーマルで始めたのですが、もう少し難しくてもよかったかな。
 ハードにすればよかったかも。
 でもそしたら死にまくりんぐで、全然進めなかったかも。

 あ、だめだ。
 やりたい。
 ブログ書いてる場合じゃないぞ?


 というわけで、今日はこの辺で。

ニーアゲシュタルト

 やっていたらあらまあこんな時間。
 超面白いです。
 実は今も途中です。
 本当はブログ書くネタもあったんだけど(バレンタインだったしね)、ニーアが面白すぎるので、取りやめです。

 今のところ、まだドラッグオンドラグーンのような絶望的な空気は感じられないのですが、さて、終盤に近づくにあたってその真価を発揮するのかどうか。

 今日はめちゃくちゃ短くて恐縮ですが、この辺で。
 詳しくは明日にでも書くことにします。

悪の教典

 読み始めました。
 ついに。
 今まで読んでいたラノベをようやく既刊全て読み終えたので、一般文芸にシフトであります。
 実際のところ、悪の教典以前にかなり積読本があるのですが、どうしても読みたくなってしまって手を出した次第です。

 で。
 これが実に実に面白い。実に。
 開始数ページで、やっぱりいいなぁ貴志祐介、って思って、50ページも読んだらもう、やばいやばい、脳みそがひゅんひゅんしちゃって、読むのを止められなくなってしまいました。
 今のところまだ上巻(文庫なので)の半分ほどしか読んでいないのですが、これでまだ全体の四分の一となると、後々の展開が楽しみでなりません。

 貴志祐介作品で読んだことがあるのは『黒い家』『新世界より』『鍵のかかった部屋』くらいなのですが、この人の描く“サイコパス”はたまらないですね。
 “サイコパス”というキャラクター性をしっかり確立していて、そこにはアニメや漫画で語られるような狂気じみた異変体としての人格よりもずっと合理的で人間的な姿があって、それがどうしようもない魅力です。
 冷徹非情な人間で、苦痛を与えることや殺戮を楽しむ、というのがただの変態だとして、“サイコパス”としてのキャラクターにはその冷徹さを振るうべき合理的思想が存在するっていうのがいいですね。
 実際のところ、いたぶることや殺害することに愉悦を覚えるというのは、(創作上のキャラクターとして)単なる過去のトラウマや、精神的な『弱さ』によるところが大きいですよね。要するに、ただの心の防衛機制として発現したに過ぎない。
 それじゃあもう普通すぎてつまらない。だから最近じゃあそういうキャラは登場しても呆気なく退場させられる結末を辿るんですよね。


 でも実際のところ、こう言った一種超越的な存在としてのサイコパスっていうのは、結構前からあるキャラクター性なんでしょうね。
 ジキルとハイドだって、ある意味ではそうですし。
 先月の日経サイエンスでも言われていましたけど、やっぱりサイコパスとしての特質は社会的に成功するための要因としても機能するわけで、そういう意味でも、物語上の絶対的なキャラとして活躍するだけの必然性はあるわけですよね。

 大体のところ、サイコパスは社会正義の下に悲劇的な結末を迎えることが多いですが、僕としては寧ろ、社会正義に対して周到に勝利して幕を下ろすっていうのも、アリだと思います。
 というか、そっちの方が好き。
 飽くまでフィクションなのだから、悪が蔓延って胸くそ悪い気持ちで読み終えた方が、現実を生きる僕としてはずっと健全な心持ちを保てるような気もしますし。


 ところで話は全然変わりますが、今日例によって頭痛に襲われて(低気圧の所為なのかな?)、1:じっと耐える。2:寝る。3:一か八かあえて運動してみる。という選択肢を突きつけられて、3を選んだのですが、結果的にこれが功を奏して偏頭痛に打ち勝つことが出来ました。
 で、問題はそこではなくてですね、僕としては運動と言ったらもう自転車を漕ぐことが当たり前なのですが、なんと、パンクしてしまいました。
 虫ゴムの劣化とかじゃないです。たぶんチューブに穴があいちゃったんだろうと思います。
 ですが修理するにも既に日は暮れていて、寒風吹きすさぶ外ではままならず、でも運動したい僕は仕方なく自らの足で走ることを決意しました。
 まあ自転車漕ぐ分には幾分体力にも自信あるし、とか思っていたのですが、だめ。まるでだめ。
 ほんの5分くらい走っただけでもうぜーひゅーなっちゃって、中高生の頃と今の自分を比べて、まさしく涙ぐむ思いでした。
 意地でどうにか10分走って少し歩いてからまた5分ほど走って家に帰ったのですが、くたくたでした。
 いやぁ。
 これはまずいですね。
 来る30代に備えて身体を作っておかなければ!なんて豪語していたのに、20代半ばにして既にこの体たらく。まったく、我ながら口ほどにもない。

 帰ってからは、再び意地で、上半身の筋トレに勤しんだわけですが、まあこれは普段からそこそこやっているのでそこまで疲れませんでした。
 運動、っていうよりか、しっかり身体を鍛えていこうと決心しましたよ。

 あと、当初の予定では自転車を漕いで運動するついでに、いつも使っているゲーム屋に行ってニーアを買おうと思っていたんですよ。
 ずっと気になっていたんです。ニーア。
 僕はPS3を持っていなくて、箱しかないので、ゲシュタルトの方ですね。
 聞くところによると、あれはドラッグオンドラグーンのスタッフが作っていて、かの新宿エンディングの数千年後の未来という裏設定があるらしいじゃないですか。
 それを聞いただけでもうやりたくてやりたくて。
 ドラッグオンドラグーンは僕がやってきたゲームの中では余裕で五指に入るくらい好きなので、是非プレイしたいです。

 それでどうしてまたニーアを買いに行こうと決心したかというと、これがまあ昨日の記事にも書いたのですが、いまトータルイクリプスを見ていてですね、最初の二話にベータがカニバってるシーンがあるじゃないですか。あれを見てつい、ドラッグオンドラグーンのあの赤子のことを思い出してしまって。
 懐かしいなぁ。
 あの巨大な赤ちゃん。
 鉄塊だっけ? あの巨大な武器。攻撃力だけは最強なんだけど通常モーションが遅すぎるやつ。
 あれをジャンプ攻撃つかって倒してたっけ。
 普通に戦おうとするとマジで強いんだもんよあのヒュージベイビー。

 ドラゴンに乗っての空戦も好きだったなぁ。新宿での音ゲーは除外するとして。

 まあつまりトータルイクリプスを見てドラッグオンドラグーンを思い出して、そういえばニーアがあったなっていう連想で、うおーやりてー!!ってなったわけですね。
 でも自転車がパンクしてしまっていけなかったと。
 もしかしてこれは、ゲームなんかしてる場合じゃねえだろ。小説書くか、せめて小説を読んで素養を培うくらいのことでもしろ。っていうお告げなんですかね。いや。知らんぞ。そんなもの。ゲームだってなんだって、“やりたい”って思うその気持ちがそもそも貴重なんだって僕は気がついたんだ。
 歳をとるとさ、本当に心が芯から震えるような輝きに満ちた欲求というのがなくなるわけですよ。
 子供の頃のように、ゲームがやりたくて仕方なくて、学校が終わったら全力疾走でぜーひゅーしながら帰途を辿ったあの気持ちは、もうただの郷愁の念に過ぎないんだよ。
 いや。
 嘘。
 本当は今でもはまっちゃうと、全力で帰途につきますね。

 要するに、だ。
 そもそもそれだけはまれるものがなくなってきたんだ、ってことです。
 心の底からわき上がってくる欲求を大事にしたいっていうわけです。


 さてと。
 こんな感じかな。
 では、この辺で。

トータルイクリプス

 今更ながらに見ています。
 今更、っていうのが多いですね。
 実は、僕はあんまりリアルタイムで観るのが好きじゃないんですよね。
 一気に観たい。
 単純に一週間ごとに一話ずつ見ていくっていうことにこらえ性がないのもそうなのですが、普通に楽しむという面においても、一気に見ていった方が楽しめるんじゃないかなと思うわけです。
 やっぱりリアルタイムで一話から最終話まで観ていくと、何ヶ月も間をおくことになりますし、そうなるとどうしても作品の主題を見失いがちになってしまうので、だから一気に観たいです。
 一週間ごとに考察しながら見ていくのも楽しいのですけどね。


 でねマブラブオルタネイティブトータルイクリプスですが(長ぇ)、これ、ちょー面白いですね。
 って、まだ四話までしか観ていないんですが。
 ほとんど事前情報無しで、ただ評判はあんまりよくないってことしか知らずに(というか結構ひどい言われようをしているのを知ったのが見る切っ掛けですね)、見始めて、なんかゲームっぽいないいな、って思って調べたらまさしくゲームでしたね。
 そういえば結構前に友人にマブラブはえろげーだよ、って言われていたのを思い出しました。
 SAOのときもそうだったんですが、やっぱりゲームっぽいのが僕は好きみたいですね。
 ゲームっていっても、学園もののえろげーとかの方じゃなくってどっちかというとコンシューマのRPGとかの方ですね。
 あるいは、ネトゲみたいな感じ。


 あと好感が持てたのは、ちゃんと主人公に近しい人間も死ぬこと。
 なんていうか最近の僕としては、敵と戦っていたり、戦争しているのに、都合良く味方だけ死なないという設定がどうしても受け入れられなくなっていて、もちろん大好きなヒロインとかが死んだらイヤなんですけど、でも、いくら主人公が反則的なまでに強大であったとしても、守る上で一人や二人取りこぼしが出るのは当然のことで、それが起きえない状況って言うのは、つまり敵方は主人公たちの大団円に向けてただ滅んでいくだけの存在になりはてるようで、それが解せなくなってきてしまったわけですね。

 “敵”がなぜ敵たり得るのかと言えば、それは主人公たちと相対する思想や理想を抱いているわけで、それが一概に“悪”だと断じられてしまうと、それは勧善懲悪の児童向け作品になってしまうので、僕も見ていて冷笑を禁じ得なくなってしまいます。
 もちろん、ぷりきゅあみたいに本当に児童向けであれば、僕はそれとして楽しむのですが、大人が大人向けの娯楽として提供する上では話が違うということです。

 まあ作品の全てが僕の言うようなものだったら、それはそれで反動的にみんなが笑って幸せになる話じゃどうしていけないんだ、って思うのでしょうけれど。


 とりあえず、今言いたいのは、トータルイクリプスに僕が好感を抱けたのはそうした背景があったからですよ、ってことですね。私見です。
 あと、敵が人間を食うっていう描写。あれも効果的ですね。
 命を賭した戦いにおいてはしばしば人間はモノになりさがるわけですし、特にトータルイクリプスのように言語も思想も通じない侵略者が敵であった場合には、人間が当然のごとく持ち得る倫理観を超越した行動を自然にとるというのは、それだけでその世界観に引き込まれる重要なファクターになると思います。
 勉強になりました。
 でも不自然だったのが、あの巨体に比するとあまりに小さな人体を、それこそ何十体ものベータが群がって食っていたことですね。
 言っちゃえば、一体だけでぺろりと食えばいいものを、どうして分け合っていたのでしょうか。
 もしかして、あのベータってただの先兵に過ぎず、人間達に恐怖や絶望をばらまくようプログラムされた存在なのでしょうか。
 それなら納得いきますね。
 死を全く怖れないという性質の反面のあの強固な装甲。
 自然発生的ならば、そこにあるのは少なくとも“出来る限りの個体の維持”であって、それは則ち愚直なまでの特攻を否定するものでありながら、やはり死を恐れずに立ち向かってくると言うのは、ベータは生み出された、あるいは第三者の作為を受けた存在であるように思われてなりません。


 となると、クロマクが宇宙のどこかにいるというわけですが、そのオチがβならぬB級でないことを祈るばかりですね。


 さて、言いたいことは大体言えたかな。
 では今日はこの辺で。

ドラゴンクォーター

 やりました。
 四週目で1/4達成です。やった!!
 あとやるべきことといったら、D-ダイブ縛りプレイとスキルコンプくらいですかね?
 スキルはリンの貫け!がとれていないくらいかな?
 ああ、あとシェイクブレンもとってないか。

 次はD-ダイブ縛りで、パーティ経験値不使用でやろうかな。
 それでもスキルと装備が整っている分、初見よりかかなり楽になっているでしょうけれど。


 にしても、リュウさんが1/4かぁ。
 はじめは1/8192だったのにね。
 みんなにローディ(能無し)ローディ言われてたのに。
 今日もディク狩り?なんて言ってね、サードレンジャーがいいとこの落ちこぼれだったはずなのに。
 いまじゃあボッシュ1/64(ドヤァ なんか、顎で使えるくらいのD値ですよ。
 メンバー? は? オリジンクラスだし俺、リュウ1/4ですけど、なにか? みたいなね。

 そしたらボッシュも、「あっ、ちーっすリュウさん! 今日も髪型いけてますね! いやぁ俺もその髪型にしちゃおうかなぁ。あ、でも結構おれ、今の髪型気に入ってるんすよね。どっすか? おれのかみ・・・あ、どうでもいっすか。ははっ、すんません・・・、おれ、D値1/64しかないんで、頭悪くて・・・」みたいな感じになって卑屈になったり?

 いやぁ。
 世の中には、一週目から1/4を達成しちゃうようなゲーマーさんもいらっしゃるようですが、そこまではやる気にならないですね。
 普通に何週もして1/4を達成して満足です。
 というか、たぶんいくらやっても一週目1/4は僕には無理だと思います・・・。


 でも1/4になったからといって、特に何が変わるわけでもないんですよね。
 せいぜいドラゴンブレードが+9になるくらい。
 シナリオ面では、「リュウ1/4(ドヤァ 」ってしても、ローディローディ言われるのは変わらないですし。
 実際のところ、このゲームって、シナリオに未完成感があるんですよね。
 もちろん、本編で充分に要点は語られていますし、曖昧な部分も意図的にそうされているって感じはあるんですが、なんていうか、挿入したかったけど色々な事情があって結局入れられなかった部分っていうのがある気がしてならないです。

 というか、シナリオ自体は、本当に要点だけしぼってるって感じですよね。
 あとは世界観を見て、いろいろ想像してちょーだいね、って感じ。
 それが見事に成功している点こそ、このゲームの特筆すべき部分だと思いますが、それでもやっぱり物足りない感は、ありますね。
 いや、やっぱりその物足りないを含めてこのゲームは完成しているのか・・・。
 うむ。

 ああ。
 1/4を達成してしまった・・・。


 そういえばドヴァーはどうしてまた、あんな地下に封じ込められるかのようにいるのでしょうね。
 背中に槍かなにかが何本もぶっささってますし・・・。
 アンチドラゴンってことは、やっぱり対ドラゴン兵器ってことなんですかね。
 対ドラゴン兵器がアジーンやチェトレと同じドラゴンの姿っていうのもまた、不思議ですが。



 おおっと。
 そろそろ日付が変わってしまう。
 まだ書きたいことはたくさんあるのですが(嘘)、今日はやむなくこの辺で切りましょうか。
 では、この辺で。

運動

 最近していないせいか、体力が著しく衰えております。
 というわけで、夜にちょっとサイクリングに行ってきました。
 時間にして30分ほど。距離は、5kmくらい?
 瞬発力自体はそこまで衰えている感じはしないのですが、持久力はマジでやばいです。
 6~8割くらいの力で30分ほど漕いだだけで、かなり消耗しました。
 これはやばいですね。
 ちょっと油断するとすぐにこれです。

 いまはまだ20代だから体力が多少衰えていてもどうにかなりますが、これが創作活動も本番になってくる30代になってくると、そうもいかなそうで怖いです。
 だから今の内にちゃんと運動して体力をつけて、本当に力を発揮しないといけないときに発揮できるようにしておきたいです。


 実際どうなんでしょうね。
 確かに20代になってみて、10代の時のような溢れるような若さを感じることはなくなりましたが、それでも下り坂に入ったって感覚は正直乏しいですね。
 だから本当に30代になったら年齢を感じるようになるのか、やっぱり疑問です。
 でも、きっとこれって、眼が悪くなる前は「眼が悪いってどうなんだろう? 近くにあっても見えないってなに?」って思っていて、いざなってみると、「なるほど・・・。ふっ・・・、光のやつ、霞んでやがるぜ・・・・・・」ってなるような感じですよね。
 運動しましょう。
 生活習慣病なんかにはかかりたくないですしね。
 だって、ただでさえ生きづらいのに、さらに生きづらくなるような要因が増えるなんてイヤですよ。
 いっそのことそれくらいならすっぱり逝かせてくれと思ってしまいますよ。


 そういえば、話は変わりますが、明日はサンクリですね。
 友人が参加するのですが、僕は行きません。
 会うわけにはいかない人も来そうですし。
 でも、そういうイベントに向けて必死になって本を作っている人には感服します。
 どうしてそこまでできるんだろう? って。
 確かに僕もノッている時は狂気じみて書きまくることもありますが、それでも、“イベントに出すために”っていう動機付けでそこまでがんばれるのがわかりません。
 それに、儲かるわけではないですし。
 むしろ、目の前で自分が必死になって作った本を見もせず素通りしていく人を見る羽目になるでしょうし、モチベーション的にも損失が大きいように思われてなりません。
 まあそれでも、イベントに出すために描く。逆に、イベントがなければそんなに必死に描けない。っていうのもあるんですよね。なかには。
 友人も常々そういっています。
 不思議です。
 イベントがなければ描かない。だから、イベントに出る。そして描く。
 描くことの執念じみたその前提に対し、どうしてイベントというものが必要になるのか。
 イベントに出ないと描けないなら、そもそも描かなければいいのに、でも描かなきゃいけないから、イベントに出て必死に描く。

 これって、不思議ですけど、かっこいいです。なんだか。
 自ら描くことを決定づけて、それでも身体と意志がそちらに向かおうとしないから、むりやり制約を作ってでも描き続ける。
 そういう姿勢を考えると、僕なんかは本当にちゃらちゃらお遊びで創作しているんだなぁと感じますね。まさに恥じ入る思いです。


 では、書きますか。僕も?
 書きましょう。
 うん。たぶんもうスランプは乗り越えてる。
 たぶん今書けばちゃんと楽しんで書ける。
 だからこそ。ちゃんと下準備をしてから望みたい。
 というわけで、あと数日間、このブログには習作が載らないですね。
 そろそろマジで普通にブログを書くのがきつくなってきているので、小説を載せていきたいです。


 というわけで、今日はこの辺で。

頭痛のあとに

 創作意欲がふつふつと湧いてきております。
 これはもしや、スランプ脱却も近い?!

 とりあえず今はとにかく読んでいるラノベを読み終わりたい。
 しかし、しかしだ・・・。
 ラノベはやはりラノベ。
 いくら読んでもラノベはラノベ。
 一般文芸の倍以上のスピードで読める代わりに、そこから得られる読後感、ひいては経験値が得られている実感がない。
 というか読んでいるというよりも突っ込んでいる場合が多い。
 読み終わりたい。
 はやく。
 あと三冊・・・。

 僕は飽くまでラノベであろうと読書は読書、中学生や高校生が朝の読書で読んでも馬鹿にされる謂われはないと、思っているタイプです。
 あるいは大学生や大人でも、読み方次第でいくらでも価値の出るものだと思っています。

 しかし。
 しかしだ・・・。

 物書きを目指す人は、ある意味では読まない方がいいのかもしれない。
 というのも、一部のラノベは、文章のおかしなところが多く(しっくりこない表現。例えば『魔力が得意』みたいな)、自分で文章を書く上で、変なクセがつくおそれがあるというもの。

 もちろん、従来の文法を破壊するような、ラジカルでアナーキーな文章を目指している物書きさんなら、あるいはそれもアリなのかも。
 でも一般的に言われる、文章力、みたいなものを身に着け高めたいなら、苦労してでも多少難解な文学作品に触れるべきなのかな、と思います。

 というか、僕自身が、いまそう感じているのです。

 僕としては、とにかく最低限の文章力を確保したいので、そこらへんを向上させるための努力に気力を注ぎ込んでいるわけですが、そうなるとあまりラノベを読み過ぎない方が、なんて。
 こんなこと言ったら、単なる言い訳ですよね。
 結局文章力がないのは、僕自身の問題なのに、それをラノベを読んでいるせいにするなんて、おかしいかもです。


 ああ、あと、ラノベだけじゃないですね。
 えろげーとかギャルゲーもそうですね。
 比較的、僕の経験則によると、えろげーぎゃるげーは文章がしっかりしているものが多いような気がします。
 いや? 単に僕が名作の類のえろげーしかやっていないからそう感じるのかも?


 なんにしても、ラノベを読むにしても、ちゃんと中身の文章を確認してから読むようにしたいです。これからは。
 いや、面白いんですよ?
 楽しめますし。
 だから普通に娯楽として読む分にはどんどん読んで良いと思います。
 ちょっとした息抜き、情報収集の一巻としてなら、読むべきだと思っています。


 さて、頭痛から解放された僕は、またしてもBOF5やってます。
 最後のセーブポイントでココンホレに突入して、45層まで潜ってからいったん引き返してクリア。
 D値は1/16行きました! やった!
 次あたり、1/4目指します!!
 まあ悪くても1/8。
 装備がかなり整ったので、時間短縮と共に、ココンホレも50層突破して、レベルもちゃんと全員50以上にして、満を持して1/4を目指します。
 というかココンホレも、45層突破時点で一切D-ダイブ使わずD-カウンター4%くらい、4時間程で潜れたので、50層まで行ってドヴァー倒してきてもよかったかもしれませんね。
 まあそこは、最初に決めていましたから。
 今回は45層まで。余裕があってもそれ以上はいかない。
 冷静に、臆病に、それが慎重。ってことです。

 さて、ではドラゴンブレード+8でも取りに行きますかね。
 この辺で。

耳鳴りの次は

 偏頭痛が襲って参りました。
 なんということ・・・。
 ついでにいつものように吐き気も随伴です。
 もうブログ書く気力もほとんどないくらい、つらいです。

 今日とて漢検の勉強をしていて、その間は大丈夫だったのに、終わってから一息ついた瞬間これですよ。
 無理矢理ゲームしてみたらさらに悪化して、もう死にそう。

 耳鳴りと来て、偏頭痛、吐き気、ときたら、これはもう腫瘍でも出来ているんじゃないかと期待しますが、そんなことはない。
 不健康なれどもまだ死には遠くってことです。

 しかし、実際腫瘍とかできて、助かる見込みがないか、あっても後遺症が残っちゃうよって言われたら、あっさりと逝かせて欲しいですね。
 癌なんていうのは、ある意味では自殺プログラムみたいなものだと思うので、「きみ、そろそろ死のうね」って言われるようなものです。
 そしたら、「そっか。わかった。死ななきゃいけないなら死にましょう」と答えて、明日へと旅立ちたいです。


 でも現実にそうなったら、「うわあ、まじでぇー? できれば死にたくないなぁ・・・・・・」ってなっちゃうんだろうなぁ。
 きっとお腹の中身がひゅっと持ち上がるような感覚がして、心臓がばっくんばっくんいって頭の中真っ白視界は真っ暗ぐるんぐるん、って感じなんでしょうね。
 幾度か、死ぬぅッ!!って気持ちになったときはあるんですが(小学生の頃寿司を喉に詰まらせたときが一番かな? 割と冷静で、自分で下を向いて勢いをつけてけぽって吐き出して無事だったけど。)、やっぱマジで?! 死にたくないんですけどッ!! って気持ちになっちゃんですよね。
 普段だと、ああ、いま突然死ぬことになったら、べつにそれでもいいかなあああ、なんて思ったりするんですけど、やっぱ死っていうのは面と向かうと怖いんですよね。
 猛獣と一緒で、檻の中に飼い慣らしている内は、舐めくさってけらけら笑ってもいられるんですが、いざ自分がその檻のなかに入れられたら、たぶんちょーこわいんだろうってことですよね。


 うおおおおお。
 あたまいたいいいい。
 すとまっくおじさんがしにそううううああああ。


 ってことで、今日はケイオスな感じで。
 この辺で。

耳鳴り

 最近多いです。
 耳鳴りとは一体何なのでしょう?
 いまちらっとウィキペディア先生に聞いてみたら、自覚的耳鳴りと、他覚的耳鳴りとがあるようですね。
 自覚的耳鳴りは、完全に自分にしか聞こえない耳鳴り。
 他覚的耳鳴りは、外部からも聴取可能な耳鳴り。
 後者はわかりやすいですね。実際に筋肉や血管の運動によって生じる“音”なので。

 でもじゃあ、自覚的耳鳴りって?
 これは要するに幻聴っていうこと?
 夢の中で聞く音と一緒ということ。
 つまり、起きながらにして、夢を見ている?

 はい。飛躍しましたね。
 けれど、最近金縛りもちょくちょく起こる僕としては、なんとなくそういった夢想が近しくて、そう考えると楽しいのです。
 つまりですね、金縛りにあっているとき、まあ結構苦しいのですが、その際に聞こえる耳鳴り。
 疲れがたまったときなどに聞こえるピーン、キーン、といったような高音よりも、もうちょっとザラザラシャリシャリした音。
 いうなれば、シュイーンって音。
 これが金縛り時や、寝過ぎて現実と夢の境界が曖昧になっている時に聞く音なんですよ。

 で、それが覚醒時にも時々聞こえることがある。
 これは、つまり、起きながらにして、寝ているときと同じ状況が脳内に起きているのではないか。
 また、それは、“夢”としての世界と“現実”としての世界が混合しうるということではないか?

 よくあるじゃないですか。
 夢の世界が本当の現実で、この現実が夢なんだ、って考え。胡蝶の夢でしたっけ?
 それを実感できたようで、楽しいです。

 夢、っていうのがある種の神秘性をもって語られた時代は、もう過ぎてしまいましたけど、でも実際のところ夢というものが解明されたわけじゃない。
 そりゃ、夢というのが脳内で起こったある種の活動によって生じる、科学的に説明可能な現象、というのは、確かにそうだろうとは思いますよ。

 でもですよ。
 “意識”というものが、その生成のプロセスにおいては、脳の構造的な見地から説明可能であっても、そこから実体のない幻のようなその“意識”という機構がどのようにして機能しうるのか、それを説明することが科学的に非常に難しいということと同様で、夢というものが、単なる脳細胞による電気信号の混線だとしても、それがいかにして特定の“世界”として構成、知覚されるのか、これを解明することは不可能に近いという意味で、まだまだ“夢”が神秘性を伴っているということは相違ないと思うのです。

 つまり夢というのは、電子回路が意志や命を持つことがないのに対して、ある有機物が意志や命を持ち得ることの不可解さに同義であると考えるのです。


 僕としては、命というやつが、単なる化学的、物理的な作用以外の要因をもって成立しているのではなく、まったく別のエネルギーによって生じていたら、すごくすごく嬉しいなあと思うわけで、だから夢というやつも、そういう“命”的なエネルギーによって生じる、物理的世界とは一線を画した、それでいて確固たる一個の“世界”であることを望むわけです。

 夢、が命としての現象そのものだったら、こんなに嬉しいことはない。わくわくします。

 生きるということは当然、現実における物理的な活動を通じて、自己という一つの体系をある方向へと向かわせていくことだろうとは思いますが、それが実は、本当は夢としての活動こそが生きることの本質であり、命としての活動そのものであるとしたら。
 『どこからきて、どこへいくのか』この問いに、答えられるかもしれませんね。


 耳鳴りから、こんなロマンチズムに発展してしまいました。
 僕の脳みそはメンヘラです。まったく。
 ちなみに断っておきますと、今回挙げたような考えは、飽くまで全て虚構、つまり空想でしかないと、完全に自覚しています。
 だから、こいつちょっと頭おかしいんじゃないの? とか、思わないでください。
 健全な中二病をこじらせているだけですから。
 ただまあこういう考え方を世間様に恥じ入ることなく突き詰めていくことで、幾分僕の創作活動にも良い意味で寄与してくれるのではないかと期待しているわけです。
 仮に頭おかしいよお前病院行ってきなよ、とか言われても、そう言われてしまった自分の失態を顧み、また最悪、病院へ行くことはあっても、この空想はやめることはないでしょうね。
 良心的な常識人になるよりかは、僕は物書きになりたいので、そのために自分の信ずる行動を改めるつもりはないです。

 いまのところ、こういった空想を馬鹿にされたりしたことは多分ないですけど、最近はちょっと突っ走り過ぎている気がして、内心びくびくしてます。


 というわけで、今日はこんな感じですね。
 ではこの辺で。

ゆき

 言われていたほど多く降りませんでしたね。
 朝から降っていたので、これはもう午前、午後と降り通したらきっとものすごく積もるに違いない。
 なんということだろう。
 大災害だッ!!
 と危惧していたわけですが、結局べちゃべちゃと雪だか雨だかわからないようなものが降っていましたね。

 にしても、先日降ったときは、数年ぶりの大雪と言われて、空から降ってくる雪が幻かなにかのように見えて大層心沸きたったものですが、今回は雪の記憶も新しくそこまでありがたみのあるものではなかったですね。
 実際、これが連日連夜と降り続いていたら、きっと気も滅入るだろうなと思って、雪国に暮らす人々の気持ちをうかがい知れた気持ちです。


 まあ今回みたいな雪は、雪として白くちらちらと風に舞う姿を楽しめつつ、それでいてうずたかく積もるというわけでもなく、明日も明後日も交通に不便することもないので良い雪だったのかな、とも考えられますね。

 ああ。
 でも・・・。
 きっと今がスランプ状態でなかったなら、きっと雪をいつものように楽しめたのじゃないかと思うのですよ・・・・・・。
 なににも心が震えない・・・。
 いや、感動や楽しみ、あるいは相反する感情、そういったものはあるにはあるのです・・・。
 でも、肝心な部分が震えない・・・。
 原動力のようなものが欠けている・・・。

 どこに行ってしまったんでしょう。
 それとも使い果たしちゃった?

 まさか・・・。
 そんな、ね・・・。
 使い果たすとか・・・。


 今の僕にとって、唯一楽しめるものと言えば、漢検の勉強くらいなものですよ。
 ゲームやったり、本読んだりするよりも、漢検の勉強の方が幾分楽しいです。

 今日は書き取りの勉強をしたのですが、初見じゃほとんど書けなかったです。
 見た覚えはある。朧気ながらイメージはある。だけど書けない。そんなのばかり。
 でも、やっぱり一回ちゃんと見て書けば、割とすんなり覚えられる。
 一通り解答を見て書いてみて、最初から解き直せば、ちゃんと書ける。そういうものですよね。

 そういえば、書き順がわからない漢字が多くて調べてみたのですが、意外にも慣れ親しんだ書き順が誤っていたりして、おおこれは縦棒が先だったのか!縦横横縦・・・と、新鮮な驚きをもって退屈せず勉強できましたよ。
 甘って字、これ、横縦縦横横、なんですね。
 ずっと横棒引いてから、左の縦を引いてそのまま繋げて下の横棒、左の縦棒、中の横棒、と書いていました。世、もそうなんですね。
 書き順どころか、これじゃ画数まで違っちゃう。道理で画数検索で漢和辞書が答えてくれないわけだ。

 あと今日は今日で、旧字体に悩まされました。
 テキストに書いてある漢字と、辞書に載っている漢字が微妙に違くて、その度に調べて書き順を確認して、とやっぱり時間が掛かってしまいました。

 机の上に、ルーズリーフとテキストと、練習用のコピー用紙と、コーヒーと大豆と、スタンドライトと、辞書とノーパソを置いて、配置を変えたりして、そんなことも楽しかったです。
 ああ、あとデスクトップを弄っているときもちゃんと目に入るように、PCラックに漢字をメモした紙をぺたぺた貼ったり。
 うん。
 漢検の勉強楽しい。

 でも、きっとすぐ飽きちゃうんだろうな。
 ちゃんと6月末まで続けられるといいけど・・・。


 今日は雪の話をしてブログのネタにしようと思ったのに、結局漢検の話になっちゃったな。
 ちょっとブログのネタの方向性も考えないとな・・・。


 ではこの辺で。

電子辞書

 欲しいです。
 新しいの。
 今使っているのは、既に八年目に突入していて、とても長く愛用しているのですが、いい加減新しいのが欲しいです。

 新しい電子辞書に求めるのは、なによりレスポンスの早さですね。
 カラーだとかタッチパネルだとかはいらないんですが、とにかく早くなって欲しい。
 あとは、精選版 日本国語大辞典が欲しい。
 それに四字熟語辞典が充実したものが欲しいです。

 生物物理化学事典も入ってないとイヤなので、そうすると、エクスワード XD-D10000がいいんですよね。
 って、四万円・・・・・・。

 僕としては、カシオ以外の電子辞書を使う気はないので、選択肢的には、これ一択なんですよね・・・。
 辞書をカスタマイズ出来たらいいのにな・・・。
 無駄な辞書が多すぎるんですよね・・・。
 完全な抱き合わせ商法なのですが、しかし、まあ完全なるカスタマイズなんて望むべくもなく・・・。


 四万円はちょっとぽんと出せないですね。
 でも、実際今使っている電子辞書が八年目だとすると、やはり長く使うものですし、お金に糸目はつけたくないです。
 特に僕なんかはしょっちゅうわからない熟語やら漢字やらがあるので、電子辞書御用達なわけです。

 欲しい。
 電子辞書欲しい。


 なぜこうも激しく欲するようになったかというとですね、実は今日、漢検準一級の勉強を始めたのです。
 そこで、まあ見たことも聞いたこともないような言葉が出てくるわけですね。
 はい。調べますね。はい。
 出てきません。
 今までにもまあ、あったんですけどね。
 割と広辞苑に載っていない日本語って多いんですよね。

 で、もしかしたら先ほど挙げた精選版 日本国語大辞典には載っているんじゃないかな? と期待しちゃったわけです。

 そこまで広辞苑とのスペック差があるわけではないようなのですが、少なくとも例文の幅が増えそうなので、やっぱり欲しいです。

 ちなみに僕が持っている広辞苑に載っていなかったのは、巽言(そんげん)、灘響(だんきょう)、杵臼(しょきゅう)、穆(ぼく)です。とりあえず今日やった分のなかでは。
 読みの見開き一ページです。
 読めても意味のわからない語も多分にあったので、割と調べつつ、意味も書き取りつつやっていたらことのほか時間が掛かってしまって、見開き一ページで今日は挫折です。


 でもやっぱり楽しいですね。
 漢字って。

 鶯遷(おうせん)とか、これは昇進や転居を祝う際に使われる言葉なのですが、語源としては、鶯がくらい谷間を出て高い木に移ること、なんですね。
 目の前に浮かぶようじゃないですか。
 鶯が谷間をささっ、と飛んでいって、高い木の枝に止まり、涼やかに囀る様が。
 あとは、粥ぐ。とか。これ、ひさぐって読むんですよ。意味は売ること。かゆじゃないのかよ、こんな意味あるのかよ! ってびっくりです。
 ちなみに、販ぐ、とも書きます。あるいは鬻ぐ、とも。
 面白いです。
 すんなり覚えられるものもあれば、なかなか覚えられないようなものもあって。
 粥ぐもそうです。
 全然耳慣れない音なので、覚えづらいです。

 忽(ゆるが)せ、も面白かったです。
 忽って言う字は、粗忽の忽でしか知らなかったのですが、なるほど、忽の語意は『心がうつろなさま。よく見定められないさま』となっていて、合点がいきます。
 ああ、今調べてみて思い出しましたが、忽(たちま)ち、にもこの字が使われていましたね。この場合は『うっかりしているまに。いつのまにか。たちまち。』の意を持つようです。


 こうして日本語としての漢字を勉強していると、やっぱり感覚が拡張されていくような気がします。
 あるいは、感覚としてはあったんだけど取り留めもなくて掴みかねていたものが、はっきりと形になって現れるような。
 やっぱり物書きとして、この勉強は効果的だ、と思っております。


 あと勉強していて思ったのが、小学生の頃は、葉の字ですら覚えられなくて苦労していた記憶があるのに、今では割と普通に一目見れば、鶯とか謬見とか、後胤とか書けて、こう言うのが知の積み重ねなんだなぁと実感します。
 結局漢字って、画数が増えて複雑そうに見えても、つくり自体は組み合わせの違いがほとんどだから、要素とその繋がりさえ覚えてしまえば、そんなに難しくないんですよね。
 あと、必ずその漢字の成り立ちが、そのつくりの中に含まれているから、それさえ飲み込めれば、手が忘れても頭で思い出すことが出来る。
 漢字って、数式みたいだな、と思いました。


 さて、今日はこんな感じかな。
 雪降るのかな。
 もう今年はいいんだけどな。充分満喫したし。

 では、この辺で。

漢検

 受けようかなと考えてます。
 準1級。
 問題集も買ってきました。
 次は6月30日にあるようですね。
 時間的には余裕。あとはやる気ですか。

 なぜ取ろうかと考えたかというと、まず、姉が今更ながらに2級を取ろうとしていて、昨日受験してきていたことがきっかけです。
 どうやら姉はあまり芳しいとは言えない結果を持ち帰ってきたようですが、まあ本も読まない上、漢字を手書きするような職務に就いているわけでもないので、仕方ないと言えば仕方ないでしょう。

 僕としては結構前から、準1級は取っておこうかな、と思っていたわけです。
 一応物書きを目指していますからね。
 語彙を増やしたい、と思ったのです。

 まあちらっと問題集をめくってみたところ、確かに読めない、書けない、知らない漢字と、たくさんあるのですが、1級のようにこんなの見たことも聞いたこともないよという漢字ばかり、というわけではないので、勉強すればとれそうです。

 時間を決めて、こつこつやっていきたいです。


 漢字って、良いですよね。
 平仮名も片仮名も、好きと言えば好きなのですが、漢字は、それこそ、同じ音でも漢字が違うことで微妙なニュアンスを表現できる。
 おそれるという言葉にしても、恐れるならひょっとしたら~かもしれないの“恐らく”としての不安げなニュアンスを含み、怖れるならびくびくと身体を戦慄かせて怯えるニュアンス、畏れるならすくみ上がるようにおそれる様、あるいは畏怖というニュアンス。
 ここらへんの感覚を、是非とも常用漢字外まで広げていって、語彙を豊かにしたい。
 問題集を見てみても、そうした要求に応えてくれそうなので、勉強するのがちょっと楽しみなくらいです。

 でも、実際の所、小説の中で常用漢字外の漢字を使うのって、結構難しいんですよね。
 まず、気取った文章になりかねませんし、読む人に一定以上の知識を要求してしまう。そうすると、自然読む人を限定してしまうし、読んでいてくたびれるような小説になってしまいかねない。
 だから、多用は出来ない。
 京極夏彦を読んでみて、僕としても、あんまり当て字やらルビを振らなければ読めないような漢字を使いまくるのは、読んでいてあまり良い気分じゃないな、と感じたのもあって、結構意識していまいます。

 近代文学のように、極めて洗練された文章においてなら、難解な熟語の多用も、むしろ作品の魅力をあげる要因になるかと思うのですが、少なくとも僕の文章では、かなり注意してかからないと、下手すると中二病とか言われちゃう。

 よく、小説を読んでもらった感想に、あまり難しい漢字を入れない方がいいよ、とか、読めない漢字が多かったよ、って言われるので、注意したいのですが、どうにも一般的な多くの人が読めない漢字っていうのがわからなくて、頭を抱えがちです。


 それでもやっぱり、最近の平仮名ばかりの風潮は色々な意味で良くないとも思うので、漢字は積極的に使っていきたいですね。
 その為にも、より多くの漢字に親しんで、センスを磨いていきたいです。


 と言っても、本当にスランプ続くなぁ・・・。
 全然文章がのらないよ・・・。

 どうしましょ・・・。


 とりあえず、今日はこの辺で。

ぷぷぷぷりきゅあ

 始まりましたね。
 ドキドキプリキュア。
 ネーミングがそこはかとなくしょぼいので、あんまり期待していなかったのですが、実に素晴らしい出来でしたね。

 特にED。
 動きが素晴らしい。
 シリーズを追うごとにめざましい進歩を遂げていますよね。
 すごい。

 といっても、僕はプリキュアをまともに見始めたのはスイートからなので、実はすげーにわかです。
 他のプリキュアも見ようかな? と思うんですが、なにせあの話数なので、ちょっと見るには腰が引けますね。

 それに、まあ面白いことは面白いのですが、血潮が滾るほどに熱中するわけではないので、どうしても過去シリーズまではさかのぼれないです。


 今回のプリキュアは、ちょっとシナリオにも期待できそうですね。
 まだ勘の域を出ないですが、なんとなく、しっかり整った感じを受けたので。

 いや、実はツイートしながら見ていたもので、そこまでじっくり分析してはないので、錯覚かもしれないのですが・・・。


 あと、思ったのは、演出が大人向けだなぁ、ということ。
 ふつうにえろいですよね。
 視線がえろい。
 ふとももがえろい。
 もっと言っちゃえば、女児向けなのに、女の子が色っぽい。

 いや、僕はそういうの求めている訳じゃないんですよ?
 むしろ、深夜アニメ以外を見る機会として、まったくポルノ性を排したアニメを見たいので、出来ればそういうあだっぽさはいらないといっても過言ではないです。
 プリキュアの薄い本も、正直あんまり好きになれないです・・・。
 絵師さんとしては、わかりやすくて面白いネタになるのでしょうが・・・、なんとも・・・。それこそ、幼児にポルノグラフィを突きつけるのと同じような感覚です。
 って、ろりこんの僕が言うのもおかしな話ですね。

 そう。
 ドキドキプリキュアに出てきた幼女!
 かわいかったなぁ・・・。
 ってツイートしまくっていた僕。これもまた、薄い本を出すことと同じく、子供たちの夢を貶める行為に他ならないですね。
 戒めましょう。


 どうにか、二次元の幼女と現実の幼女を分かつような、いい言葉はないでしょうか。
 現実の幼女に興味がないのに、外で幼女幼女言うと、当然の如く現実の幼女を表しているように捉えられてしまうのです。
 これは由々しい。
 例えばお酒の席で興が乗って、幼女幼女言ってたら、お縄になっちゃいます。

 なんか考えよう。


 だめです。
 今日はマジで文章がのらない・・・。
 というか、正直プリキュアのネタで書くのがよくなかったんだ。


 あと、キーボードを叩く指が中々動きにくいですね。
 最近タイピング練習をサボっているので、その影響が出ているのでしょうか。
 タイピング、やらなくちゃなあ・・・。


 というわけで、今日はこの辺で失礼します。
 では。

紙媒体と電子媒体

 書籍のお話です。
 結論を先に持ってくるとすれば、僕は紙媒体派です。
 でも電子媒体が紙媒体が持ち得ない重要な役割を担うことが出来る、というのは信じて疑いません。

 例えば、先日も感じたのですが、牧野信一の地球儀を探していたとき。
 これはまあ割と有名だったので、図書館で簡単に見つけることが出来ました。
 でも、ちょっと考えたんです。
 もしこれが、近所の図書館にもなくて、買うには数千円~数万円出さないと読めないような本だったら。
 あるいは、古書店へおもむいて、古書の山の中から発掘するより他なかったら。

 そういった稀覯本なんていうのは、普通僕にとって縁遠いものなのですが、こうして考えてみると、なるほど、もし電子媒体に保存されているなら、簡単に読めるのだな、と。
 そして、電子書籍は、事実そういったことを可能にしている、と。

 まあもちろん、電子書籍化するにはお金が掛かりますから、読まれもしない、売れもしない本を電子化することはないでしょう。
 だから稀覯本の全てが電子化されることもない。
 でも、もし今後の世界で、電子化が進んでいけば、歴史の中に消失、あるいは焼失していくだろう書籍が改めて誰かの目に止まり、そしてそれが一般化せらる、とそういう状況も生まれるのでは、と。

 電子書籍のメリットは、これだけじゃないですよね。
 よくいわれるように、まず重量と体積を節約できる。
 持ち歩くのにも、維持するのにも、その労力は決定的なまでに節減されます。
 単語検索もついていれば、ちょっと思い出せないようなフレーズも簡単に探し当てることが出来ます。
 僕も、その辺のメリットは重々承知していますし、否定する気もありません。

 しかし、紙媒体派です。

 何度か言っているのですが、僕は読書は好きじゃないですが、本は好きです。

 また、ビブリアでも言われていたように、古書には、それを持っていた人の手を渡ってきたという、記録、あるいは思い出がある。
 これは、単なる感傷と言い切ることもできません。
 そもそも読書を何のためにするかと言えば、まあ色々と理由はあるかと思いますが、その内容を読み、頭に記憶し、現実生活をより豊かなものにする、という意味では、概ね間違っていないのかと思います。
 もちろん、単なる娯楽目的、と言う人もあるかと思いますが、それはある種の知の娯楽であって、つまり無意識的な知識欲の現れではないかと思います。
 ラノベだってそうですよ。
 あらゆる娯楽は(放蕩的なそれではないですよ? 例えば酒や性交は娯楽ではなくただの快楽です)、総じて、成長欲求、自らがより自ら足らんとするような志向性、だと思うわけです。

 話は逸れましたが、つまり、紙媒体という、その媒体そのものに付加された個別性、これが重要なのだと考えてます。
 電子書籍にも、それがないとは言いませんよ。ただし、紙媒体に比べて、あまりに希薄であるということです。

 例えば想像してください。
 子供の頃に読んだ絵本。
 押し入れの中にしまわれていたそれを、ふと取りだして、開いてみると、なんとも見るに堪えないほど、薄汚れて、所々に油染みのようなものも見受けられる。
 ぺらり、とページを捲った瞬間、つんと、かびの臭気が鼻をつき、はらりと何かが落ちる。見ると、それはどうやらページの間に挟まれていた、ポテトチップスの欠片のようだ。
 ふと気がつくと、部屋の中央に寝転んで、お菓子をかじりながら絵本を読んでいる幼い自分がいる。
 幼い自分は、無邪気に笑い、ポテトチップスを口に運んではぱりぱりと音を鳴らしてそのカスをページの上に落としている。
 それを見かねて近寄ろうとすると、それより先に、今よりもずっと若い母が現れて、それをたしなめる。不服そうに返事をしながら、カスを払い、本を閉じて、どこかへ去って行く。

 こういう思い出が、本の中には封入される訳です。
 あるいは、それによって増強される記憶。
 記憶が、より多くのプロセスや関連性を持つことによってより強く記憶されうる、ということが、ここにも現れています。
 その状況と共に思い出される本の内容。
 また、その内容を読んでいた当時の自分の姿。
 これが記憶、ひいては心理的な効能を多大にもたらすことは、疑いありません。

 電子書籍においても、むろん、こうした個別性が保持されうるとも思います。
 でも、紙媒体の書籍が、より読書の本質的な役割に寄与している、というのは、本当だと思うわけです。


 よく、紙媒体にこだわる人は、原始的で、時代の流れについていけない古い人間だ、というような論調を見かけますが、こういう人は、この理屈が感情的であることからも明らかであるように、きっと自己を内省することや、本質を見極めることの出来ない、流されるばかりの人なのだろう、と推察されます。


 電子書籍を否定するつもりはありません。
 電子書籍に変わっていく時代の潮流も、止められないでしょう。
 出版業界は必死ですし、また強大でもあります。
 紙媒体にはなかった利便性が、そこには溢れています。

 だからといって、紙媒体がなくなることはないだろうな、という意識はきっと、みんな誰しも持っていると思います。
 それが単に、紙に固執する人たちだけを慮っての配慮、というのではなく、紙媒体の書籍が、本を読むことの本質に根ざしているからだと、僕は思うわけです。


 なんだか今日は、ちょっと持論を展開させ過ぎちゃいました。
 ツイッター見てたら、相も変わらず、紙媒体派は原始人だとかなんとか感情的に言っている野蛮人がいたもので、それにあてられて僕の方まで感情を高ぶらせてしまいました。
 いけませんね。


 ところでかくいう僕も、ラノベは割と電子書籍で読んでます。
 まあラノベ自体あまり読まないので、数は少ないですが・・・。

 ラノベとか漫画って、普通に買おうとするとマジでかさばってしょうがないと思うんですよね。
 だけどやっぱ、目が疲れる・・・。


 とりあえず、今日はこの辺で。

攻殻機動隊

 またみてます。
 一話から。
 そうですね、東のエデンからの繋がりです。
 とりあえず昨日は、12話、タチコマの家出 映画監督の夢までみました。
 一番好きな話が、タチコマの家出なんですよ。実は。

 あんまり、共感していただけることがないのですが、というか攻殻の話をしているときでも、え? そんな話あった? って感じで、みんなほとんど興味を抱いていないわけです。
 あの話は、タチコマが個性を得るにあたって、『命』って奴を知るお話だと思うのですが、もうね、あの丘の上公園に行こうよってタチコマが言ったときから始まるあの音楽、あれを聞くともう目頭が熱くなってしまって・・・・・・。

 ミキちゃんの、秘密の金魚の、あの命の捉え方が、僕にとってすごい衝撃だったんでしょうね。
 その部分のタチコマとの会話は、


「秘密の金魚って言うお話知ってる?」
「秘密の金魚? 知らない」
「私とおんなじくらいの女の子が主人公の物語で、自分の金魚をどうしても他人(ひと)に見せたがらない女の子のお話で…」
「その子がなんで他人に金魚を見せたがらないかっていうと、自分のお小遣いで買ったからだっていうの。それでね、周りの大人は『なんて困った子なんだろう』って心配するんだけど、本当はその金魚はもうとっくに死んじゃってて、そのことを回りの大人に気づかれまいとして女の子は金魚を誰にも見せなかったの」
「ふーん…、よくわからないなぁだって金魚は死んじゃったんでしょ? だったらまたお小遣いとかで新しくすればいいのに」
「だめよそんなの! 死んじゃった金魚はもう帰ってこないんですもん。
女の子は金魚が死んだことで自分が悲しむだろうって大人達に思われたくなかったのよ」
「だって自分はもう十分悲しいんだもん」


 って感じです。
 この最後の二行。ミキちゃんの言葉が、本当に衝撃的でした。
 この不合理なまでの、一個の命に対する執着。
 この後、丘の上公園に行って、探していたロッキーを見つけるわけです。

 話の最後に、タチコマの中に、「to be -not to be」って表示されるんですよね。
 生きるべきか、死ぬべきか。
 あるいは非常に訳の難しい台詞としてか。
 言葉では直接表せない命と、他の言語で表すには非常に難しい台詞。
 それをAIが関連させたのかな、とも思ってしまいますね。


 兵器としてのタチコマが、命について考えさせられる、というのもまた面白いですよね。
 本来命を紙切れのように散らすのが目的のものが、命が大切だと思うようになるかのようなお話。
 現実の世界を見てみても、みんな命が大事だなんだと説いて置きながら、命はやっぱり消費物でしかなく、また人間の命でさえ真実言われるような大切さなどないのだと示されるのに対して、やっぱり命がそれぞれが唯一無二の掛け替えのないものなんだという事実。
 矛盾するようで成り立っているそんな命の正体に、近づいていくAIが流した涙。


 本当に、心やら命とやらが、わからなくなってきます。
 よく心なんていうのは、脳内の分泌物が織りなす錯覚だ、なんていわれますが、ことはそんなに単純じゃ無いわけですよね。
 確かに喜怒哀楽、快不快は脳内物質がもたらすものですよ。
 それは波長の長い電磁波が目に差し込んだときに、赤だと感じる、その現象と同じですよ。
 では、そもそも、じゃあなぜ、その分泌物が分泌されるのか。
 突き詰めて、種の存続?
 じゃあなぜ種を存続させなければならない?
 もとは微細な分子の寄り集まりでしかなかったのが、どうして一つの志向性をもって恒常性を保ち続けるのか。
 単純に、宇宙人が食用プラントとして、プログラムを植え付けていった、というのならわかりやすいんですがね。
 だけどちょっとそれは荒唐無稽ですからね・・・。

 まあ考え出すとキリが無いのです。
 だからここで切りましょうか。

 ちょっと考えすぎて疲れちゃいました。
 この辺で。
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